多摩地域にゆかりが深い日本のロック・レジェンド、忌野清志郎さん(1951-2009)は国分寺市富士本の出身。国立駅から数分ほど歩いた坂の上に実家があり、ここから多くの名曲が生まれました。清志郎さんが親しみ、楽曲にたびたび登場する坂の風景を探しに、歩いてみました。
国立駅東側、中央線の線路をななめに横切っているのが、“はけ”と呼ばれる国分寺崖線です。立川市から大田区まで約25kmほど続く古多摩川が削った段丘で、高低差は10m〜20mほど。清志郎さんの実家も、この国分寺崖線上にありました。
崖線によって、多くの坂道のがつくられ、立体的な風景が生み出されています。ファンの聖地として有名な『たまらん坂』も、崖線を切り通して作られた坂道です。
「坂を下って 坂を下って 国立に行こうか」。自転車で二人乗りしてあそびにいこう、と誘う『ぼくの自転車のうしろに乗りなよ』。次のセンテンスで「南口へ行こうよ」となっていることから、清志郎さんの実家のある北口の坂上から出発しようとしていると思われます。崖線には地元の人しか知らないような、細い坂道がたくさんあります。清志郎さんが友だちを後ろに乗せて自転車で下ったのは、どの道だったのでしょうか?
「最終電車で この町についた 背中まるめて 帰り道 何も変っちゃいない事に 気がついて 坂の途中で 立ち止まる」都心で呑んだあと中央線で国立駅に帰りつき、歩いて自宅へ向かうときの心情が歌われる『いいことばかりはありゃしない』。国立駅から歩いていく坂、といえばこれも国分寺崖線になります。
『ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います』という曲は、ランドセル姿の児童を見て、自分の幼い頃を回想するという歌詞です。初期の楽曲なので、おそらく富士本の実家の前の道を通学する国分寺二小の児童をみて、高校生の清志郎さんが感じたことを歌にしたものと思われます。
「ぼくらが遊んだ 一本松の丘には 住宅が建ってしまったし お花畑だったところは ボーリング場になってしまったけど」と、まちの風景が変わっていく様子が歌われています。一本松がどこにあったか定かではありませんが、崖線上にはところどころに、今でも立派な赤松が見受けられます。
坂道に残された当時の面影をたどりながら、清志郎さんが感じた風を味わってみるのもいいかもしれません。
書いた人 安田桂子
フリーの編集デザイナー。小金井市のはけ上在住。忌野清志郎さんファン交流イベント「忌野忌(いまわのき)」を毎年5 月に国立で主催しています。
ヒロシロー。
国分寺市には4年住んでました。
国分寺崖線上の内藤に1年、国分寺崖線下の光町に3年。
RCサクセションの「BLUE」(「多摩蘭坂」が収録されているアルバム)が発表される前から、あの近辺を散歩していて「面白い名前の坂だなぁ」と思ってましたが・・・。